「告白」町田康

長らく積読にしていた大作を読んでござる。

いやあ長かった。面白かったんだけど、にしても長かった。

この長さで人間の哀しみ苦しみが縷々つづられてるんだけど、多くの笑いも交えて書かれている。そら人生には笑いもあるから。というか、笑いがなければほんとに苦しい読み物、いや、人生であるだよ。

「狂気とは、自分の考えを伝える力がないことである」("insanity is the inability to communicate your ideas")という、私の愛好する、というよりことあるごとに真実だなあとしみじみする言葉があるのだが、結局熊太郎の行きついたところというのは、ある種の狂気であって、もちろんそれは一時的なもので、現代の法に当てはめて心身喪失とか耗弱と言われるような代物ではないけれども、しかし、熊太郎はある種の幻想の中であの大量殺戮を犯すのであって、広く言えばやはり狂気なのだろう。というか、町田康の主人公は、これまで読むところ、徐々に幻想に取りつかれていく奴らが多いね。あと主人公が自分の中の現実と客観的な現実の乖離に徐々に気づき始める(乖離が読み手に向かって開示され始める)ことで、主人公が実はいつのまにかどうにもならんとこまで来ていた、というのが明らかになる、というのは常套の流れになっている。

熊太郎は結構いろんな素質に恵まれた人間でもある。思弁的だ、というのは置いといても。相撲でコツを押さえてあっという間に強くなったとか、歌心・踊り心があったりとか、人と違う詩的感性があるかもしれなかったりとか(雀が天麩羅を、とか蛇がにゅうめんを、とかいうやつ)、妙に度胸が良かったりとか、一目置くべき才覚はいくつかある。が、そういうものは彼を全然救わないのであった。ことさら、歌も踊りも熊太郎を救わないのは特筆すべき点であるかも。葛木ドール・モヘア兄弟の前で歌った河内音頭は彼らの心を動かすがそれ自体は熊太郎の命を救わないし、傅次郎と盆踊りで繰り広げた熱いセッションも別に傅次郎との間に何某の縁をもたらすものではなかったし、芸能は人生のあだ花に過ぎないのである。蛇がにゅうめんをもっとより深いところまで突き詰めていけば、熊太郎はレトリックの世界に自分を表現すべき言葉を見出せたかもしれないのだが、(世の中の大半の人と同じく)怠惰で継続力のない熊太郎には無理な話なのであった。

ところで、注目すべき点は、この作品、大部分熊太郎の一人語りであるかのように思えるのだが、実は熊太郎が河内弁でしゃべる肉声ってあまりなくて、特にまとまったものとなると①井戸端で大根洗ってる娘らを口説くシーン、②熊次郎に唆されて田杉屋を襲撃したことを駒太郎に説明するシーン、③終盤、殺人の理由を弥五郎に説明するシーン、の3つきりで、それ以外で地の文の中で熊太郎の思弁、に見えるようなものは全て現代標準語に翻訳されて表現されているのであって、傅次郎の頭の中をそっくり写し取ったのがこの文章ではない、ということだ(まあそれは作者の視点というか、神的な鳥瞰的な指摘が頻繁に入るのだから、当たり前というか言うまでもないんだけど)。で、熊太郎の生の語り、というのは本当に訳が分からないのであって、まだしも、こうして書き言葉となって書かれていればこそ、何んとかそこから骨子を汲み取れもすれ、これを口頭でオーラルで滔々と告げられた日には、まあ、村の娘/駒太郎/弥五郎のような反応になるわなあ、というものであって、コミュニケーションの難しさっていうか、それ以前に、生まれる時と場所を間違えたやね、というか、それとも才能の問題なのだろうか、思弁に表現能力が追い付いていない、という能力の限界ゆえの悲劇なのだろうか。分からん。

いや、やはり生まれる時と場所の問題だったかもしれん。他の村人たちとは違う自分、というものをなぞらえる相手が大楠公って、どっこも共通点ないやん、遠すぎるやろ、となるのだが、そもそも受けられた教育の限界っつうか、あれ、だいたい熊太郎って字を読めるのだろうか。近代の学校には通ってるわけはないので、そして寺子屋に行ったというような話もないので、やはり文盲なのだと思うが、そういう限られた知識と情報しか得られない環境にあって、はみ出し者たる自分のロールモデルとすべき存在が(大楠公くらいしか)見いだせないという条件にあって、熊太郎みたいな存在はやはり不幸だったであろう。そして、そういうはみ出し者、昔からいっぱいいたし、今もまだいるのだろうね。読書感想を読んでても、熊太郎に共感する、という人は多い。(サイコパス的なシリアル殺人でなく)瞬間的な大量殺人、例えば秋葉原の通り魔殺人(これは本作の出版より後に発生した事件だけども)のときに生じたような共感が、熊太郎に対しては起こり得る。だからここで扱われた題材はとても普遍的なのだ。

というようなことを考えていた。が、そろそろ涼しくなってきたので、畑の草を抜きにいかなければかん。このところ暑くて草取りできなくてボウボウなので。てか、ご近所で枯葉剤(除草剤)撒いてないとこはちょっと前までどこもボウボウだったのだが、最近みなさん電動草刈り機で片付けておられる。我が家の畑が目立って仕方ないのでやらねば。百姓はしんどい。百姓じゃないけど。てか、なんでこんな広い畑が我が家にはあんねや。ないけど。借りてんねやけど。長ネギとピーマンとナスときゅうりと大根、収穫しておいしゅういただきましたけんど。といいつつ、蚊への万全の防備を備えて外に向かう。