なんとなく、クリスタル

表題の小説を読む。新潮文庫で200ページ強、しかも左ページは注釈(挿絵のみのページもある)なので、さっさと読めた。

「百年の誤読」を先に読んでとりかかったので(岡野氏はとくにお嫌いのようで)、特に期待していなかったが、意外に面白かった。

青学の大学生由利の一人称により話が進むのだが(といって筋という筋はないのだが)、やたら横文字を使いたがる。クリスタル、がその最たるものなのだが、他にも、グルーミーだインクレディブルだノーブルだディレッタントだソフィスティケートだアーベインだアトモスフィアだとうるさい。だが、ここで面白いのは、これらの言葉の意味が実際の英語における意味・用法とたびたびズレている点で、もちろん作者はこの点について自覚的である。これらの横文字語は全てアルファベットの綴りが左側の註に置かれているが、例えば、註の64とか65では、その誤用がやんわりと指摘されている。私が気づいた範囲ではインクレディブルとアーベインもおかしい。で、皮肉なのはこれらの横文字を振り回す由利が英文科所属だったりする点で、彼女の学問がファッションに過ぎないことがよく分かるようになっているのだ。が、由利がどこまで自覚的であるかは分からないが、彼女にとってはそれでよいのである。彼女の言葉の選択はあくまで「気分」であって「なんとなく」であって、彼女にとっては、ディレッタントであることはあくまで美点であって、言葉の正しい用法に目くじらを立てるなんてのは、ソフィスティケートされた態度ではないのだ。知らんけど。

ただ、この点であまり主人公をバカにできないのは、こういうテケトーな語彙の選び方というのは、私も結構してしまうからである。現実の生活に根ざしてその意味・用法を理解していない外来の言葉を、その雰囲気と語感だけで使ってしまう。やりがち。

 

なお、由利は「私たちのまわりには、まだまだおかしな西洋コンプレックスが残っている」(p76)とか言っていて、周りにあふれる西洋文化に批判的な目を持っているのかと思いきや、由利の言うところの「おかしな西洋コンプレックス」というのは「西洋や西洋人のすべてがすぐれている」という思い込みのことであるにすぎない。全然深く考えての話ではないのであった。

 

それからあふれるブランド名。ファッションのみならず、ディスコや料理や音楽まで。大学も。登場人物ごとにその所属大学が示される。大学名は伏せられているが、その所在地が示されて大体どの大学か分かるようになっている(主人公は青学、その彼氏は成城大学である。絶妙の設定だ。)。こういう大学名も、登場人物たちの人となりを表すブランドの一種だ。

しかしこういうブランドに溺れる主人公を笑い飛ばすこともできないのは、主人公が珍しく核心をついているからで「ブランドが、ひとつのアイデンティティーを示すことは、どこの世界でも同じなのだから。」(p78)、あと、註249なんかもそうで、およそ人間が世間に向かって身につけるものは全てブランドまたはブランド類似物に過ぎないということが喝破されている。ここも良い。

 

江藤淳は、この作品を読んで激賞したそうだが、その評価の一部が作者によるあとがきに引用されている。江藤氏によれば、この作品は、東京において「都市空間」というものがもはや失われていることを描き切ったものだ、ということだが、ここでいう「都市空間」てなんなんだろう。なにか記号に還元されない、有機的な一体としての都市、ということなのですか。今一つイメージがわかない。(この点を調べていたら、恵泉女学園大学紀要の面白そうな論文が出てきたので、後で読もうと思う)

 

追記

上記の論文、なんクリの部分だけ読んだ。なんクリとジョルジュ・ペレックの「物の時代」との関連性と、「物の時代」(60年代)からなんクリに至る道のりで生じた変化(すなわち、ブランド主義の確立)について語られていて目からウロコだった。もちろんペレックを読んだことはない。

江藤淳のいう「都市空間の崩壊」とは、この論文で引用された北田暁大の「都市の中に広告があるのではない。むしろ都市そのものが広告であ り,広告でないものが存在しない」に通じるかもしれない。