2023年のまとめ

長距離移動:東京4回(3、6、7ー8、10)、石川(3泊4日)、山口(3泊4日)

収入:650(事業450、運用200)

読書:53冊

交友:専門学校の同級生、前の職場の上司、10年ぶりに再会した人

アトピー:8、9月がマックス、9月に2年ぶりに医者にかかる。

特筆事項:堆肥づくりを開始(11月〜)、歌劇DVDを約60枚購入、年に1度の歯医者に行かず

2023年の読書まとめ

読了数:53冊(「ルポ・トランプ帝国」〜「銃・病原菌・鉄(上)」)

特徴:1. 2022年が確か38冊だったので、15冊増えた。これは仕事が減って空き時間が増えたことによる。その分事業収入は約25万減った。

2. フィクション39、ノンフィクション14

3. 日本48、外国5

4. 夏目漱石の中長編を読み切った。それから、行人、門、二百十日・野分、こころ(再読)、虞美人草、坑夫、彼岸過迄、明暗、道草(10作品)。「文鳥夢十夜」は読みさし。

5. 村上春樹の新作を読み、旧作を再読した。猫を棄てる、一人称単数、街とその不確かな壁、羊をめぐる冒険(再読)、ダンス・ダンス・ダンス(再読)、ハードボイルド・ワンダーランド(再読)(6作品)。「東京奇譚集」(再読)は読みさし。

6. ご新規さん(フィクションのみ)

また読みたい:林芙美子三島由紀夫津村記久子西村賢太

機会があれば:チョ・ナムジュ、歌野晶午田中康夫吉野源三郎

もういい:伊藤たかみ万城目学、中山七里

7. 今年崩したい積本:危機と人類(ジャレド・ダイアモンド)、罪と罰ドストエフスキー)、アンナ・カレーニナトルストイ)、蝿の王ゴールディング)、80日間世界一周(ヴェルヌ)、イエスという男(田川建三)、三島由紀夫林芙美子

 

2023年のまとめ

長距離移動:東京4回(3、6、7ー8、10)、石川(3泊4日)、山口(3泊4日)

収入:650(事業450、運用200)

読書:53冊

交友:専門学校の同級生、前の職場の上司、10年ぶりに再会した人

アトピー:8、9月がマックス、9月に2年ぶりに医者にかかる。

特筆事項:堆肥づくりを開始(11月〜)、歌劇DVDを約60枚購入、年に1度の歯医者に行かず

2024年1月のある日の記録

1月1日に能登地震が発生した。

1月2日に羽田空港で旅客機と海上保安庁の航空機が衝突した。5人死亡1人大けが。

12月半ばに5センチほど降って積もって溶けて消えて以来、まだまとまった雪が降らない。零下にならない夜もある。暖冬である。

年が明けてからまだ仕事が来ない。8日(月)まで確実に来ないので、少なくとも半月近く仕事をしていないことになる(添削を除く)。他にすることもないので、読み差しの本を片付けている。今年に入ってもう5冊読んだ。

去年下旬から現在まで、トリコチロマニアが悪化。珍しく3か月以上も治っていたのでがっかりしている。現在は抜くほどではなく峠は越えているが、気を抜いてものを読んでいるときなどに触ったり切ったりする。

寝る前の暴飲暴食のために胃が痛い。特に朝起きた時がよろしくない。でも深夜のカルピスソーダとせんべい美味い。また、胃が弱っていると車酔いの症状が長く重くなることに気づいた(2015年にストレスで胃をやられて、一度やられるとずっと胃弱になるよと言われたが、現実にはそんなでもなく、仕事を辞めたらあっさり治ってずっと堅調なままきたのだが、母親と同居以降、ストレスからの夜食習慣で度々胃を悪くするようになった。去年の夏はさらに別要因のストレスが加わり、ものが食えなくなるまでになり、数十年ぶりで体重が51キロを下回ったが、ストレス原因が消えて今は持ち直した。でも結構食べている気がする割には体重は53キロ台でかつてのように食っただけ増えない。理由は分からない。)。いつも変わらず快腸。

このところは睡眠薬を要せずよく眠れるが、寝起きは良くない。寝る前に水分を摂り過ぎているために尿意で目がさめるが、トイレに行くことなくうつらうつらした状態でアラームがなるまでを過ごす。

アトピーはここ1年で最も良い状態。格別痒いところはない。

花粉症が重くならないよう、花粉の季節になる前に生活を改善したい。早寝早起き、十分な睡眠と健康な食生活。

「FUTON」中島京子

新年初読了は初めての中島京子作品だった。

単純な感想から言えば、すいすい読めて面白かった。まず、出てくる登場人物がなかなか魅力的である点、特に主人公のデイヴと画家のイズミ。デイヴ作成の「蒲団の打ち直し」の美穂の心情描写のリアルさと細かさ。また、文章の、特に話し言葉の自然に入ってくる点。場面の切り替えの巧みさ。中年の男、若い女、若い男、という三角関係を何重にも重ねた人間模様の多彩さもすごく読ませた。全体としてとてもリーダビリティの高い小説だった。

その一方、現代の感覚からするともうすでに古さを感じる部分もあった。2003年の作品、すなわち20年前の作品であるからそりゃそうだろうとは思うが。

古さを感じるというのは、46歳の男が20歳そこそこの娘と恋人同士になったり、その尻を追いかけ回して海を渡ったりする様を現代、2024年現在この小説のように描けるかといったら、まあ難しいんじゃなかろうかという点において、である。加えて、この二人のポジション、大学教授とその大学の生徒、という立ち位置も大変センシティブで、よくある恋愛と破局にシンプルに落とし込んでよいものかどうか、とやっぱり現代の作家なら悩むだろう。この年齢差の違和感は、この二人の間に年齢以外のギャップ、すなわち白人とアジア人(日本人)というギャップがあるために若干気にならなくなってはいるが、仮にデイブを日本の大学勤務の46歳日本人男に置き換えてみよう。すぐに不穏でちょっとイヤな気持ちが湧き上がってこないだろうか。

デイヴがどう見えるかというのは、田山花袋の「蒲団」の主人公竹中時雄がどう見えるか、ということにも直結していて、私なんかは、蒲団の主人公はもう純粋に「キモい」と思うだけど、「FUTON」の作者中島京子はこの主人公を「どこか憎めない」と言い、芳子の行状にショックを受けて厠で酔い潰れるシーンなどは「ユーモラス」で笑いを誘う、という(私はこの醜態のシーンには鼻白んだり軽蔑したりするばかりでしたが…)。これと似たような反応は「百年の誤読」を読んだ時の豊崎由美が「蒲団」の章で主人公のことを「可愛いオヤジじゃん」とかいってて、むしら対談者の男性の岡田宏文の方が主人公の醜態に批判的なのもそうで、この感覚には、割と世代格差を感じたりもする。というか「女は男の馬鹿さ加減を鷹揚に受け止める/受け流すべき」という抑圧が、彼女らの感覚を歪めているのでは、とも思える。

とは言え、私とて職場なんかで「男のセクハラめいた発言を冗談として受け流す」という仕草は散々やってきたわけであって、それがスマートな対応であるとすら思っていた。そういう余裕のある女を装うそぶりはいい加減にやめて真っ向から怒るべきだ、という声が次第に大きくなってきたのはごく最近のことのように思う。かつての私はその選択肢に全然気づいていなくて、ほとんど無意識のうちに事なかれ的な対応に終始していたわけなのだから、やはり「旧式」な人間なのだけど。ただ、新しいその考え方があっという間に馴染むのは、そして過去の自分の対応を後悔するようになるのは、やはり無理をしていたのだとも思う。それは中島氏や豊崎氏も同じで、今ではもうそんなことを言わないんじゃないかな。

とは言え、「FUTON」のデイヴの試行錯誤はかなり面白く読めてしまったのも事実で、エミの日本行きを知って自分の日本行きを決めるくだりから、エミのメールパスワードを涙ながらに解読しようとするくだりから、地域情報誌をたどってエミの祖父タツゾウの店を突き止めるくだりから、楽しく面白くデイヴがかわいいとも思う。じゃあ田山花袋の主人公との間にどんな違いがあるかと言えば、いい年をして若い女の尻を追っかけたいというその行動原理は同じであるにしても、エミやイズミの自由を尊重して、その人間性や非性的な側面に対してもちゃんと敬意を払っているという点でやはり時雄とは大きく違う、という点が(こちらの)エクスキューズになるかなあとは思う。

他方で、ウメキチというのはなかなかの因業じじい、いや、業深じじいというのか、グロテスクなものを背負っている男である。「蒲団」の時雄のグロテスクな側面を体現したキャラというのかな。実際ウメキチが彼の記憶のようにツタ子を殺したかは分からないし、妻子が疎開中に空襲の東京でツタ子と同棲していたかのすら分からない。しかし、そういう妄想を抱えているということ自体が結構ゾッとすることに思われるのだ。そして、その歪んだ記憶は、イズミが感じているように、ウメキチの心の傷、終戦までを日々空襲に怯え、炎の中を逃げ惑った心の後遺症と分かちがたく結びついているのかもしれない。そういう何か哀れなものを背負った、けれどほんのりグロテスクなのがこのキャラクターだ(ちなみに、男性から介護を受けるのを嫌がる老人というのは実際たまにいるらしい。これは男性被介護者に限らず、女性の被介護者についても起こることで、恐怖心からなのか、それともウメキチのようになにがしかの強固な固定観念からくる拒絶なのかはよく分かんないけども。)。

その他、良くできてるなあと思うのは、デイヴの手による「蒲団の打ち直し」における時雄の妻、美穂の心情の描写である。特徴的なのは、美穂が全体としては夫に同情的であり、芳子に対する夫の数々の対応がその善良さ、親切心から来るものだと素直に信じている点で、対して芳子への批判眼は強い。夫への批判がないこともないのだが、瞬間的なものに過ぎないし弱い。これはすごくリアルで感心した。また、芳子の恋人への悪口などを通じて夫の機嫌を買うというか、夫に寄り添って行こうとするところなど、これもまた生々しくありがちなことだと思った。依存的な地位に置かれた女が陥りがちな心境であろうと思うし、恐ろしいのは、現在もこういうメンタリティ、ことさら男の機嫌を取ろうとするメンタリティが相変わらず根付いている女も少なからずいるだろうことだ(というか私も御多分に漏れないのだ)。時代が被せてくるある種のマインドコントロールであろうし、自己催眠かもしれない。もう一人の主人公であるこの美穂の姿というのは、いろんな意味で我が身を振り返させられるものだった。

中島京子直木賞作家なので、大衆小説の人ということになるのだが、この作品は野間文芸新人賞の候補になっている。以降路線を変えていったのかな。他のものも読んでみようと思う。去年は、津村記久子西村賢太、そして三島由紀夫という、読み重ねていきたい良き出会いがあったのだけど、今年も端から出会いがあって幸先がよろしい。今年もいっぱい読む年にしたい。

「どこから行っても遠い町」川上弘美

今年は川上弘美を何年ぶりかで読んでいる。「古道具中野商店」に続き。

1回読み終わってから何章か読み返した。格別面白かったから、というわけでは別になく、最近は、読んだ本の感想を読書サイトにまとめるようにしているのだけど、255文字にまとめられるような適切な感想がほとんど思い浮かばなかったので、感想を書くために読み返してみたのだ。

 

最初に読み返したのは、「長い夜の紅茶」で、これが全編で一番面白かった気がする。主人公の時江は夫その人よりも、その母親の弥生の方に「縁づいた」感がある。具体的には、より夫に対するよりも積極的に姑に愛着を感じている。

「男なんかと一緒にいて、女が幸せになるものかと思ってさ」という弥生の言葉は、主人公が夫によって幸福になるタイプの人間ではない(逆に言えば、夫によらずとも幸福になれる)ということを看破した上での発言で、それが「時江は昔、けっこうならしたでしょう」とか「名人」とかの発言に繋がっているのか?が、そんな大げさな話でもないような気もする。

全編に共通するのは、非定型な関係性に焦点が当てられているということで、定型的な関係、すなわち、普通の夫婦、恋人同士、親子関係、というものはいずれのエピソードでも中心になっていない。むしろそういう普通の関係に対する違和が大きなテーマになっているのであって、普通の関係に馴染めぬ人、かつてはそういう関係にありながら徐々にそこから逸れていってしまう人、そういう関係を構築する段階に至って何某かの違和や哀しみを抱く人…などが主人公となっている物語群だ。

登場人物として面白いのは、年甲斐があるんだかないんだか分からない独身の中高年女性たち、弥生、森園あけみ、央子さんなどである。弥生さんは、時江を嫁というより友人として遇しているように見受けられる。時江と呼び捨てにするのも友達感覚に近いような気がする。様々な関係性を「友人」という緩い枠の中に分類する形で広い人間関係を築いている感じで、一番こなれている、という感じがする。その点あけみはもっと不器用で、男に対しては女として振舞ってしまうし、緩い友人であるユキに一緒に暮らさないか、娘にならないかと誘いかけてしまうし、清と坂田に恋人同士かと聞くし、カテゴライズせずにはいられない性分らしく、それが彼女の孤独の理由であるかにも思われる。それに彼女はえらく遠く、熊本へと引っ越す。写真はいらない、とユキに対してそっけない。この女はもしかして人間関係リセッターなのか。決定的な別れというものがあまりストーリーの中で、彼女はちょっと異質な存在に感じる。央子さんは、カテゴリ的な関係「女将と板前」に逃げ込もうとする昔の恋人をそこから引きずり出そうとし、かといって彼らの昔のカテゴリである「恋人」には戻らず、「家族」というカテゴリも拒否する、自由な性分だが、弥生よりは男友だちの方が多そう。私には彼女らの在り方が目立ったのだが、それは私自身が中高年独身女性のロールモデルを常に探しているかもしれない。そして彼女たちよりも若くて動揺的な、人生の様々な段階にいる、あるいは入ろうとする女たち。

(男たちも色々なのだが、やはり男はこの物語群においては常に「客体」「媒介」あるいは「語り手」にすぎないように感じる。男性はこの小説をどんな感じに読むのだろうか。)

そしてすでに死んだ女、春田真紀。彼女も定型の家族や夫婦というものを外的な、あるいは内的な力によって逸脱していってしまった存在だった。そして、冒頭章で描かれる彼女のかつての夫平蔵と彼女のかつての愛人源さんの関係性は、この小説の共通項「非定型な関係性」の1つであるが、春田真紀という女性の記憶を立体的に保持するための2人で1つの入れ物のような存在でもある。死者の記憶は共有されることでより豊かに色濃くなり、記憶そのものが存在足り得る(年々はかなくはなっていくけれども、完全に消えることはない)。真紀が義母や不慮の死を遂げた実両親を密葬にしたことを後悔する記述があってとても示唆的だ。「残されたのは、あたしたちだけではなかった。残されたのは、亡くなった人に縁のある、深い縁も浅い縁もすべてふくめた、そういう人たちの全部、なのでした。」そういう人たち、残されたできるかぎりすべての者たちで死者の死を共有しなかったことが、今では悔やまれる。「浅い縁」も含めた、と言っているのがまた含蓄のあるところで、浅い縁を排除することなく、できる限り広く繋がる緩い共同体として、記憶の共同体として、生者も死者も包摂する共同体を懐かしく見つめるのがこの小説の限りない優しさであり緩さである。

「おれは謝ろうと思っても謝りきれないのだ。罰されようとしても、罰されきれないのだ。なぜならば、おれはかかわり、ふれ、心を動かしてしまったからだ。純子に、千秋に。千夏に。そしておれにかかわる人々すべてに。」

よく知らないけど、かつての日本社会にはそんな共同体があったかもしれない。「これも何かのご縁ですから」「袖触り合うも他生の縁」という言葉が生きていた。共同体ぐるみで冠婚葬祭を執り行って、「家族葬」とか「密葬」という言葉はまれなものだった。それがいつのまにか、今の我々のようになったのだ。なぜこうなったのだろう。資本主義が云々とか、社会学的にいろいろな説明はあり得るのだろうが、まあそこに気楽さと利便があったからだろう。けれど引き換えに失ったものもある。

ともかく、この小説は、この孤立社会においても、名状しがたい関係性を、だからといって切るとか、排除するとかでなく、名状しがたいままに維持していくことの大切さを訴えかけているような気もする。そこにも確かに何かが、名状しがたい絆があるのだ。

模糊模糊した小説だなあという読後感だったが、こうしてテーマみたいなものが何となく掴めると、なかなか有意義な小説だったと感じる。

 

「告白」町田康

長らく積読にしていた大作を読んでござる。

いやあ長かった。面白かったんだけど、にしても長かった。

この長さで人間の哀しみ苦しみが縷々つづられてるんだけど、多くの笑いも交えて書かれている。そら人生には笑いもあるから。というか、笑いがなければほんとに苦しい読み物、いや、人生であるだよ。

「狂気とは、自分の考えを伝える力がないことである」("insanity is the inability to communicate your ideas")という、私の愛好する、というよりことあるごとに真実だなあとしみじみする言葉があるのだが、結局熊太郎の行きついたところというのは、ある種の狂気であって、もちろんそれは一時的なもので、現代の法に当てはめて心身喪失とか耗弱と言われるような代物ではないけれども、しかし、熊太郎はある種の幻想の中であの大量殺戮を犯すのであって、広く言えばやはり狂気なのだろう。というか、町田康の主人公は、これまで読むところ、徐々に幻想に取りつかれていく奴らが多いね。あと主人公が自分の中の現実と客観的な現実の乖離に徐々に気づき始める(乖離が読み手に向かって開示され始める)ことで、主人公が実はいつのまにかどうにもならんとこまで来ていた、というのが明らかになる、というのは常套の流れになっている。

熊太郎は結構いろんな素質に恵まれた人間でもある。思弁的だ、というのは置いといても。相撲でコツを押さえてあっという間に強くなったとか、歌心・踊り心があったりとか、人と違う詩的感性があるかもしれなかったりとか(雀が天麩羅を、とか蛇がにゅうめんを、とかいうやつ)、妙に度胸が良かったりとか、一目置くべき才覚はいくつかある。が、そういうものは彼を全然救わないのであった。ことさら、歌も踊りも熊太郎を救わないのは特筆すべき点であるかも。葛木ドール・モヘア兄弟の前で歌った河内音頭は彼らの心を動かすがそれ自体は熊太郎の命を救わないし、傅次郎と盆踊りで繰り広げた熱いセッションも別に傅次郎との間に何某の縁をもたらすものではなかったし、芸能は人生のあだ花に過ぎないのである。蛇がにゅうめんをもっとより深いところまで突き詰めていけば、熊太郎はレトリックの世界に自分を表現すべき言葉を見出せたかもしれないのだが、(世の中の大半の人と同じく)怠惰で継続力のない熊太郎には無理な話なのであった。

ところで、注目すべき点は、この作品、大部分熊太郎の一人語りであるかのように思えるのだが、実は熊太郎が河内弁でしゃべる肉声ってあまりなくて、特にまとまったものとなると①井戸端で大根洗ってる娘らを口説くシーン、②熊次郎に唆されて田杉屋を襲撃したことを駒太郎に説明するシーン、③終盤、殺人の理由を弥五郎に説明するシーン、の3つきりで、それ以外で地の文の中で熊太郎の思弁、に見えるようなものは全て現代標準語に翻訳されて表現されているのであって、傅次郎の頭の中をそっくり写し取ったのがこの文章ではない、ということだ(まあそれは作者の視点というか、神的な鳥瞰的な指摘が頻繁に入るのだから、当たり前というか言うまでもないんだけど)。で、熊太郎の生の語り、というのは本当に訳が分からないのであって、まだしも、こうして書き言葉となって書かれていればこそ、何んとかそこから骨子を汲み取れもすれ、これを口頭でオーラルで滔々と告げられた日には、まあ、村の娘/駒太郎/弥五郎のような反応になるわなあ、というものであって、コミュニケーションの難しさっていうか、それ以前に、生まれる時と場所を間違えたやね、というか、それとも才能の問題なのだろうか、思弁に表現能力が追い付いていない、という能力の限界ゆえの悲劇なのだろうか。分からん。

いや、やはり生まれる時と場所の問題だったかもしれん。他の村人たちとは違う自分、というものをなぞらえる相手が大楠公って、どっこも共通点ないやん、遠すぎるやろ、となるのだが、そもそも受けられた教育の限界っつうか、あれ、だいたい熊太郎って字を読めるのだろうか。近代の学校には通ってるわけはないので、そして寺子屋に行ったというような話もないので、やはり文盲なのだと思うが、そういう限られた知識と情報しか得られない環境にあって、はみ出し者たる自分のロールモデルとすべき存在が(大楠公くらいしか)見いだせないという条件にあって、熊太郎みたいな存在はやはり不幸だったであろう。そして、そういうはみ出し者、昔からいっぱいいたし、今もまだいるのだろうね。読書感想を読んでても、熊太郎に共感する、という人は多い。(サイコパス的なシリアル殺人でなく)瞬間的な大量殺人、例えば秋葉原の通り魔殺人(これは本作の出版より後に発生した事件だけども)のときに生じたような共感が、熊太郎に対しては起こり得る。だからここで扱われた題材はとても普遍的なのだ。

というようなことを考えていた。が、そろそろ涼しくなってきたので、畑の草を抜きにいかなければかん。このところ暑くて草取りできなくてボウボウなので。てか、ご近所で枯葉剤(除草剤)撒いてないとこはちょっと前までどこもボウボウだったのだが、最近みなさん電動草刈り機で片付けておられる。我が家の畑が目立って仕方ないのでやらねば。百姓はしんどい。百姓じゃないけど。てか、なんでこんな広い畑が我が家にはあんねや。ないけど。借りてんねやけど。長ネギとピーマンとナスときゅうりと大根、収穫しておいしゅういただきましたけんど。といいつつ、蚊への万全の防備を備えて外に向かう。