「FUTON」中島京子

新年初読了は初めての中島京子作品だった。

単純な感想から言えば、すいすい読めて面白かった。まず、出てくる登場人物がなかなか魅力的である点、特に主人公のデイヴと画家のイズミ。デイヴ作成の「蒲団の打ち直し」の美穂の心情描写のリアルさと細かさ。また、文章の、特に話し言葉の自然に入ってくる点。場面の切り替えの巧みさ。中年の男、若い女、若い男、という三角関係を何重にも重ねた人間模様の多彩さもすごく読ませた。全体としてとてもリーダビリティの高い小説だった。

その一方、現代の感覚からするともうすでに古さを感じる部分もあった。2003年の作品、すなわち20年前の作品であるからそりゃそうだろうとは思うが。

古さを感じるというのは、46歳の男が20歳そこそこの娘と恋人同士になったり、その尻を追いかけ回して海を渡ったりする様を現代、2024年現在この小説のように描けるかといったら、まあ難しいんじゃなかろうかという点において、である。加えて、この二人のポジション、大学教授とその大学の生徒、という立ち位置も大変センシティブで、よくある恋愛と破局にシンプルに落とし込んでよいものかどうか、とやっぱり現代の作家なら悩むだろう。この年齢差の違和感は、この二人の間に年齢以外のギャップ、すなわち白人とアジア人(日本人)というギャップがあるために若干気にならなくなってはいるが、仮にデイブを日本の大学勤務の46歳日本人男に置き換えてみよう。すぐに不穏でちょっとイヤな気持ちが湧き上がってこないだろうか。

デイヴがどう見えるかというのは、田山花袋の「蒲団」の主人公竹中時雄がどう見えるか、ということにも直結していて、私なんかは、蒲団の主人公はもう純粋に「キモい」と思うだけど、「FUTON」の作者中島京子はこの主人公を「どこか憎めない」と言い、芳子の行状にショックを受けて厠で酔い潰れるシーンなどは「ユーモラス」で笑いを誘う、という(私はこの醜態のシーンには鼻白んだり軽蔑したりするばかりでしたが…)。これと似たような反応は「百年の誤読」を読んだ時の豊崎由美が「蒲団」の章で主人公のことを「可愛いオヤジじゃん」とかいってて、むしら対談者の男性の岡田宏文の方が主人公の醜態に批判的なのもそうで、この感覚には、割と世代格差を感じたりもする。というか「女は男の馬鹿さ加減を鷹揚に受け止める/受け流すべき」という抑圧が、彼女らの感覚を歪めているのでは、とも思える。

とは言え、私とて職場なんかで「男のセクハラめいた発言を冗談として受け流す」という仕草は散々やってきたわけであって、それがスマートな対応であるとすら思っていた。そういう余裕のある女を装うそぶりはいい加減にやめて真っ向から怒るべきだ、という声が次第に大きくなってきたのはごく最近のことのように思う。かつての私はその選択肢に全然気づいていなくて、ほとんど無意識のうちに事なかれ的な対応に終始していたわけなのだから、やはり「旧式」な人間なのだけど。ただ、新しいその考え方があっという間に馴染むのは、そして過去の自分の対応を後悔するようになるのは、やはり無理をしていたのだとも思う。それは中島氏や豊崎氏も同じで、今ではもうそんなことを言わないんじゃないかな。

とは言え、「FUTON」のデイヴの試行錯誤はかなり面白く読めてしまったのも事実で、エミの日本行きを知って自分の日本行きを決めるくだりから、エミのメールパスワードを涙ながらに解読しようとするくだりから、地域情報誌をたどってエミの祖父タツゾウの店を突き止めるくだりから、楽しく面白くデイヴがかわいいとも思う。じゃあ田山花袋の主人公との間にどんな違いがあるかと言えば、いい年をして若い女の尻を追っかけたいというその行動原理は同じであるにしても、エミやイズミの自由を尊重して、その人間性や非性的な側面に対してもちゃんと敬意を払っているという点でやはり時雄とは大きく違う、という点が(こちらの)エクスキューズになるかなあとは思う。

他方で、ウメキチというのはなかなかの因業じじい、いや、業深じじいというのか、グロテスクなものを背負っている男である。「蒲団」の時雄のグロテスクな側面を体現したキャラというのかな。実際ウメキチが彼の記憶のようにツタ子を殺したかは分からないし、妻子が疎開中に空襲の東京でツタ子と同棲していたかのすら分からない。しかし、そういう妄想を抱えているということ自体が結構ゾッとすることに思われるのだ。そして、その歪んだ記憶は、イズミが感じているように、ウメキチの心の傷、終戦までを日々空襲に怯え、炎の中を逃げ惑った心の後遺症と分かちがたく結びついているのかもしれない。そういう何か哀れなものを背負った、けれどほんのりグロテスクなのがこのキャラクターだ(ちなみに、男性から介護を受けるのを嫌がる老人というのは実際たまにいるらしい。これは男性被介護者に限らず、女性の被介護者についても起こることで、恐怖心からなのか、それともウメキチのようになにがしかの強固な固定観念からくる拒絶なのかはよく分かんないけども。)。

その他、良くできてるなあと思うのは、デイヴの手による「蒲団の打ち直し」における時雄の妻、美穂の心情の描写である。特徴的なのは、美穂が全体としては夫に同情的であり、芳子に対する夫の数々の対応がその善良さ、親切心から来るものだと素直に信じている点で、対して芳子への批判眼は強い。夫への批判がないこともないのだが、瞬間的なものに過ぎないし弱い。これはすごくリアルで感心した。また、芳子の恋人への悪口などを通じて夫の機嫌を買うというか、夫に寄り添って行こうとするところなど、これもまた生々しくありがちなことだと思った。依存的な地位に置かれた女が陥りがちな心境であろうと思うし、恐ろしいのは、現在もこういうメンタリティ、ことさら男の機嫌を取ろうとするメンタリティが相変わらず根付いている女も少なからずいるだろうことだ(というか私も御多分に漏れないのだ)。時代が被せてくるある種のマインドコントロールであろうし、自己催眠かもしれない。もう一人の主人公であるこの美穂の姿というのは、いろんな意味で我が身を振り返させられるものだった。

中島京子直木賞作家なので、大衆小説の人ということになるのだが、この作品は野間文芸新人賞の候補になっている。以降路線を変えていったのかな。他のものも読んでみようと思う。去年は、津村記久子西村賢太、そして三島由紀夫という、読み重ねていきたい良き出会いがあったのだけど、今年も端から出会いがあって幸先がよろしい。今年もいっぱい読む年にしたい。