羊をめぐる冒険

高校以来再読。耳のモデルの子の存在が、覚えていたよりも鮮やかだった。黒服の回し者だという説もあるらしいが、やっぱり彼女はシャーマンなのだと思いたい。

これも探索型の冒険物語。探索するものは羊。しかし、ジプシーの民話なんかと違って主人公が求めるものを手にすることはない(これは「ダンス」でも一緒)。求めるものはすでに失われている。これは、レイモンド・チャンドラー的な手法であるとどこかに書いてあった。

村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」をもう一度読みたいのだが、手元にない。鼠や五反田君とテリー・レノックスの類似点はよく指摘される(というか口調が同じですよね、この人々はみな)ところ、それを確認したい。正直、チャンドラーは私にはよく分からないのだが、春樹役のチャンドラーを読んでいた頃(今からちょうど10年くらい前である)、私には集中力がなかった。今なら多分集中して読める。ならばまた新たに気づくこともあるであろう。

「羊」は「ダンス」に比べるとすっきりコンパクトによく出来た作品である。であるために完成度の高さだけで満足してしまって、なかなか追求しない。のであまり言うことがない。

ただ、耳のモデルの女の子のことだけど、彼女は12歳の時から耳を出さなくなった、というのだが、その理由は、その美しさが失われるのを遅らせるためだったのであろうか。村上春樹の小説でよく出てくる類型の女の子、かつて持っていた眩いばかりの美しさを、歳経るにつれて失い、しまいには死んだり殺されたりする・・・という類型の女の子があるのだが(「多崎つくる」のシロなど)、彼女はその亜種なのであろうか。

しかし、彼女はぼ「僕」との旅で、その魅力を急激に失うことになる。「ダンス」では、五反田君は、彼女の耳に全く気を止めていない。その美しい耳は、この時もうすでに喪失されていた可能性がある。「羊」において「僕」に耳を見せすぎたためか?それとも、やはり羊をめぐる冒険自体に、彼女の美しさを著しく損なうこととなる要素が含まれていたのであろうか。シャーマンが力を失うときとはどんな場合であるのか?

など、私の興味は耳の女の子に集中した。でも、羊男も良い。羊男は十二滝町の出身で、戦争忌避者である。徴兵を逃れて森に迷い込んで、そのまま人外のものとなってしまった奴である。寒い北海道の森を生き延びるために、または人目をくらますために、彼は逃亡時に羊の毛でできた衣装を被ったのであろうか。

そういえば、どこかで12が「羊」のキーポイントだって指摘してたな。耳の女の子が耳を閉じた年齢が12。十二滝町。干支は12。あと、羊をキリスト教に関連づけて考えるなら、十二使徒も想起される。まあそこに深い意味が付されているわけでもないのかもしれないけど。