「葉桜の季節に君を想うということ」読了

深夜1時に外に出てやっぱり暖冬だなあと思う。昨日は寒かったけど、今は氷点下行っていないように感じる。

「葉桜の季節に君を想うということ」を読み終わった。面白かった。ネタバレしてしまっていた他にも2つどんでん返しがあって、ほほ〜という感じであった。初めから、住んでいる所やら着るものやら、入る店やら、主人公の印象が一致しない感じ、なるほどこういう種明かしなね、と最後にわかる。とてもとてもよくできている。ミステリ小説に珍しく、結末に人生論が入り、さらには恋愛小説っぽく終えたのもなかなかよいではないか。

主人公はこれ、ちょいワルオヤジっていうのか、2003年頃ってそういうのが流行った時期だったろうか?と、ネットを調べていたら、2001年に創刊された雑誌「LEON」が「ちょいワルオヤジ」を創唱し、パンツェッタ・ジローラモを表紙にし、2002年の特集「モテるオヤジの作り方」が大変ヒットした、などとまあどうでも良いことを知るのだが、なるほど、主人公の造形はこの流れに乗っているような気がする。このころはまだ良い時代だったかもしれない。おっさんがモテたいなどというあられもない欲望を表に出してキモがられない、男にとっては良い時代だったかもしれない。という大らかさがこの小説にも表れている。

ちょいワルかどうかは知らんけれども、また、いい歳こいてセックスへの言及が多すぎる気はすれども、魅力的な主人公であるとは思う。壮年〜老年の男が主人公になる話は、あるいはこの手の男一人称のミステリなどは、どうも虚無的で厭世的な男が主人公に据えられることが多いような気がするけど、こういうタイプの方がなるほど話は転がりやすいよなあ、そして叙述トリック。すごいなあ。

そして悪徳商法、という関係では、2000年に消費者契約法が制定されている。小説に出てくるタイプの悪徳商法が蔓延したのがこの頃だったのかしら。

というように、当時の世情も思い返すことができて楽しかった。が、その一方で、この蓬莱倶楽部の社長の言い草、最近も「高齢者の集団自決」などの世迷言を言うような経済学者だかコメンテーターがいたけれども、こういうこと考えてる人間は結構多いのだろうなと。「植松聖はやり方はあれだけど考え方は間違ってないよね」などと言う奴でさえいっぱいいるのだ。ネットの匿名世界では。かくいう私も、こういう言説を見聞きすると、「せ、生産性の高い年寄りにならなければ・・・」などとふと思ってしまうのだが、いやいや違うだろ、と思う。生産性生産性って、何のための生産であるのか。人間の豊かな生活のための生産性であるならば、まさにここにいる人間たる私が豊かに幸福に生きるのが最も生産的であろうと。目的と手段を転倒させてはいけない。

そんなんで、無事今の世情にも繋がった。また機会があったら読んでみたい作者だなあ。でも、こう言う超娯楽小説を読んだ後は、一抹の賢者タイムがやってきて、よし、次はもっと文芸的な小説を読もう、などと思ったりするのである。その行き来に疲れると、ノンフィクションに流れる。そんな感じで、古今フィクション・ノンフィクションを割とバランスよく読んでいる。次の一冊を探そう。