「どこから行っても遠い町」川上弘美

今年は川上弘美を何年ぶりかで読んでいる。「古道具中野商店」に続き。

1回読み終わってから何章か読み返した。格別面白かったから、というわけでは別になく、最近は、読んだ本の感想を読書サイトにまとめるようにしているのだけど、255文字にまとめられるような適切な感想がほとんど思い浮かばなかったので、感想を書くために読み返してみたのだ。

 

最初に読み返したのは、「長い夜の紅茶」で、これが全編で一番面白かった気がする。主人公の時江は夫その人よりも、その母親の弥生の方に「縁づいた」感がある。具体的には、より夫に対するよりも積極的に姑に愛着を感じている。

「男なんかと一緒にいて、女が幸せになるものかと思ってさ」という弥生の言葉は、主人公が夫によって幸福になるタイプの人間ではない(逆に言えば、夫によらずとも幸福になれる)ということを看破した上での発言で、それが「時江は昔、けっこうならしたでしょう」とか「名人」とかの発言に繋がっているのか?が、そんな大げさな話でもないような気もする。

全編に共通するのは、非定型な関係性に焦点が当てられているということで、定型的な関係、すなわち、普通の夫婦、恋人同士、親子関係、というものはいずれのエピソードでも中心になっていない。むしろそういう普通の関係に対する違和が大きなテーマになっているのであって、普通の関係に馴染めぬ人、かつてはそういう関係にありながら徐々にそこから逸れていってしまう人、そういう関係を構築する段階に至って何某かの違和や哀しみを抱く人…などが主人公となっている物語群だ。

登場人物として面白いのは、年甲斐があるんだかないんだか分からない独身の中高年女性たち、弥生、森園あけみ、央子さんなどである。弥生さんは、時江を嫁というより友人として遇しているように見受けられる。時江と呼び捨てにするのも友達感覚に近いような気がする。様々な関係性を「友人」という緩い枠の中に分類する形で広い人間関係を築いている感じで、一番こなれている、という感じがする。その点あけみはもっと不器用で、男に対しては女として振舞ってしまうし、緩い友人であるユキに一緒に暮らさないか、娘にならないかと誘いかけてしまうし、清と坂田に恋人同士かと聞くし、カテゴライズせずにはいられない性分らしく、それが彼女の孤独の理由であるかにも思われる。それに彼女はえらく遠く、熊本へと引っ越す。写真はいらない、とユキに対してそっけない。この女はもしかして人間関係リセッターなのか。決定的な別れというものがあまりストーリーの中で、彼女はちょっと異質な存在に感じる。央子さんは、カテゴリ的な関係「女将と板前」に逃げ込もうとする昔の恋人をそこから引きずり出そうとし、かといって彼らの昔のカテゴリである「恋人」には戻らず、「家族」というカテゴリも拒否する、自由な性分だが、弥生よりは男友だちの方が多そう。私には彼女らの在り方が目立ったのだが、それは私自身が中高年独身女性のロールモデルを常に探しているかもしれない。そして彼女たちよりも若くて動揺的な、人生の様々な段階にいる、あるいは入ろうとする女たち。

(男たちも色々なのだが、やはり男はこの物語群においては常に「客体」「媒介」あるいは「語り手」にすぎないように感じる。男性はこの小説をどんな感じに読むのだろうか。)

そしてすでに死んだ女、春田真紀。彼女も定型の家族や夫婦というものを外的な、あるいは内的な力によって逸脱していってしまった存在だった。そして、冒頭章で描かれる彼女のかつての夫平蔵と彼女のかつての愛人源さんの関係性は、この小説の共通項「非定型な関係性」の1つであるが、春田真紀という女性の記憶を立体的に保持するための2人で1つの入れ物のような存在でもある。死者の記憶は共有されることでより豊かに色濃くなり、記憶そのものが存在足り得る(年々はかなくはなっていくけれども、完全に消えることはない)。真紀が義母や不慮の死を遂げた実両親を密葬にしたことを後悔する記述があってとても示唆的だ。「残されたのは、あたしたちだけではなかった。残されたのは、亡くなった人に縁のある、深い縁も浅い縁もすべてふくめた、そういう人たちの全部、なのでした。」そういう人たち、残されたできるかぎりすべての者たちで死者の死を共有しなかったことが、今では悔やまれる。「浅い縁」も含めた、と言っているのがまた含蓄のあるところで、浅い縁を排除することなく、できる限り広く繋がる緩い共同体として、記憶の共同体として、生者も死者も包摂する共同体を懐かしく見つめるのがこの小説の限りない優しさであり緩さである。

「おれは謝ろうと思っても謝りきれないのだ。罰されようとしても、罰されきれないのだ。なぜならば、おれはかかわり、ふれ、心を動かしてしまったからだ。純子に、千秋に。千夏に。そしておれにかかわる人々すべてに。」

よく知らないけど、かつての日本社会にはそんな共同体があったかもしれない。「これも何かのご縁ですから」「袖触り合うも他生の縁」という言葉が生きていた。共同体ぐるみで冠婚葬祭を執り行って、「家族葬」とか「密葬」という言葉はまれなものだった。それがいつのまにか、今の我々のようになったのだ。なぜこうなったのだろう。資本主義が云々とか、社会学的にいろいろな説明はあり得るのだろうが、まあそこに気楽さと利便があったからだろう。けれど引き換えに失ったものもある。

ともかく、この小説は、この孤立社会においても、名状しがたい関係性を、だからといって切るとか、排除するとかでなく、名状しがたいままに維持していくことの大切さを訴えかけているような気もする。そこにも確かに何かが、名状しがたい絆があるのだ。

模糊模糊した小説だなあという読後感だったが、こうしてテーマみたいなものが何となく掴めると、なかなか有意義な小説だったと感じる。