世界の終わりとハードボイルドワンダーランド

村上春樹の新刊「街とその不確かな壁」を読んだ。そのあと間髪入れず、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んだ。それが先週金曜から日曜にかけてのことであった。我ながら暇物である。

「世界の終わり」は2度目で、15年ぶりくらいではないかと思う。初読時は印象の薄い本で、改めて読んだら驚くほど内容を覚えていなかった。けれどそれは小説の内容というより、それを読んだ当時の私の集中力にかなり問題があったせいだと思う。初めのエレベーターのシーンで既にギブアップ気味で、そこから最後まで背景事項をよく把握しないままダラダラと読み続けたような記憶がある。

新刊と、この「世界の終わり」の設定をどの程度同じものとして捉えていいのかは分からないけれど、新刊では明示されていない影の意義というのがこの「世界の終わり」にはきちんと書かれていて、影は「自我の母体」なのだという。「自我=心」という考えでいいのかな。そんなわけで、影を失った人間には心が育まれないのである。ただ、影がなくても、心の泡のようなものは発生するらしい。「世界の終わり」の僕は、心を完全に失っている彼女の心の泡を頭骨から回収して彼女に心を作り出そうとする。しかし、初読のときは、ハードボイルドな主人公は、最後消滅したのだと思っていたが、改めて読むと、壁の外に脱出した影はどこに行くのだろう?ハードボイルドな世界に還ってきて、消滅したハードボイルドな主人公に成り代わるのではないのか?それとも思考回路から脱出した以上は無に消える存在なのだろうか。そうすると影を脱出させた意味って何なんだ。意味はなくともそれが壁の世界の主人公の考える「公正」なのか。謎が多い。