夏目漱石「行人」読了

夏目漱石の「行人」を読み終わった。

なぜか最終章で、それまで話題にも出ていなかった兄の親友Hさんが登場し、一郎との旅先から400ページ(新潮文庫)から65ページにわたる長い書簡を書き送り、二郎から語り手役を奪うところが何とも強引な流れであるけれども、しかし面白かった。Hさんが登場しないと、一郎の腹の中が本当には分からなかったので。

しかしこの一郎という人、「小皇帝」というイメージがぴったりくる。ワガママで、機嫌の良し悪しで周りを振り回すから、というだけでなく、長男という点において両親に甘やかされ、頭脳が優れていることに加え、長身痩躯でどうやら外見的にも恵まれていて、さらには高邁な精神の持ち主であること、こういうのは生まれつき良い素質を得たということで、その点では天にも甘やかされている。肉親に敬遠されるようになった後でも、異様に包容力に富んだ友、Hさんに大事に庇護され、もうめちゃくちゃ甘やかされている。にもかかわらず、本人は激しく苦悩しているのであるから、何でやねん、と思う。

まあともかく、一郎に比べると二郎はだいぶ庶民的であるし、他の家族もまあまあ平均的な人々である。一郎が鬼っ子なのである。

そんな一郎の妻である直、というのがまた面白いのだけど、今まで読んできた中で、これだけ分量をとって描写された女の人っていなかったな、と思ってちょっと興奮している。これまで読んだ中では、漱石ってあんまり女を描かないし、描く意欲もないよな、と思っていのだが、この嫂だけは、わあ、と思った。ネットに転がってる論文なんかを見ると、直は、昨今ではジェンダー論との関わりで論じられることが多いみたいなのだけど、それはそうで、本来は利発なはずのこの女性から生気を奪い、苦しめているものが封建的な抑圧であることは、なんか端々から読み取れてしまうのだ。漱石がそれをどこまで意識していたのかは分からないけれど、どっちにしろ、観察眼がすごいなあと思う。

家族の中では直と二郎が他よりも気安い関係だったというのも分かる気がして、というのは二人とも、封建的な枠組みの中で、妻として夫の劣位に置かれた女と、次男として長男の劣位に置かれた男、という点で、相通じるものがあるし、それに、いずれ家を出て行く次男、というある種自由な立場にいる二郎は、直にとっては自由と解放を体現したような存在だったのではないかと。だから、二郎と出かけた和歌山旅行は、直にとって自由に息ができる滅多にない機会で、結構楽しみにしていたのではないかと。しかし、二郎は兄からの密命を帯びていたり、夫婦関係を修復させようという魂胆があったりするので、直の期待に全然答えられないのである。直は、どうせ死ぬなら猛烈な死に方がしたい、と言って、非常に切羽詰まった気持ちを持っていることを二郎に打ち明けるのだが、これにも二郎は正面から取り合わない。二郎は後で一郎に不誠実さを責められることになるのだが、直に対してもそれは同じで、割と全方向に不誠実な奴なんよな。それが誠実な対応により一郎の本心に肉薄したHさんとのコントラストになっていて面白かったりするのだが。

しかし、心が痛むのは、一郎にはHさんがいても、直には誰もいない、ということである。二郎は嫂を気に掛けておりつつも、義弟という立場上、さらに、そもそも兄にその関係を疑われている事情もあって、当然踏み込んでいけない。あ、でも娘がいるからな、それだけは救いなのかな。

・・・という風に、結構直々してしまったのだが、それ以外では、全体の描写は全面的にいい感じだった。いつもの漱石以上に。多分、大阪、和歌山、伊豆と、全般に旅の空の描写が多いからだろう、土地土地の風情を感じる。大阪の酷暑とか、和歌山の海とか、伊豆の山深さとか、とてもいい。これは何度か読み返せそうな感じ。

さて、漱石の中長編はこれで約半分読み終わった。「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「草枕」「三四郎」「それから」「行人」「こころ」を読了。残りは、「虞美人草」「門」「彼岸過迄」「坑夫」「二百十日」「野分」「道草」そして「明暗」である。次は「門」かなあ。「それから」で飛び出した主人公が、その後どこに行き着くのかを見届けなければ。

 

追記:「それから」では、失楽園のモチーフが使われていたと思う。父親に庇護の下、浮世の苦しみのないふわふわとした世界に生きていた代助が、人妻との恋愛という禁断の果実を口にして楽園を追放される。で、労働に苦しむことになる代助の未来が予想されるわけだが、ようやっと真の近代人として世界に生まれ出ることにもなるわけだ(けれど、その生活が割と塩っぱいものであることは、「門」の読み出しですでに感じられるのだが)。

で、「行人」の一郎であるけれども、これはよく見ると、出家前のお釈迦様的な素質を与えられた存在である。経済にも(家内での)権力にも知力にも恵まれているが、悩みが深い。一郎がお釈迦様である、ということは漱石のはっきりした意図であると思われ、一郎がHさんに向かって「あの百合は僕の所有だ」とか「あの山も谷も僕の所有だ」とか言うのは、お釈迦様が生まれた時に「天上天下唯我独尊」と言ったのと同様であると思われる。

一郎の苦しみは、初めは夫婦間の不和(というほどでもないのだけど)がそのきっかけになるのだけども、結局、人間というもの全般への不信というものに繋がっていってしまう。で、何かもっと真に誠実で純粋なものを追い求めるに至るのだけど、お釈迦様とは入り口は異なるものの、結局それは哲学的あるいは宗教的な境地であって、Hさんが解決策として一郎に差し出すのが「宗教」であるのも、当然である。しかし、一郎は出家はできない、という。なぜ、というのは、Hさんとのモハメッド以降の会話に現れる部分で、一郎は、自分より偉大かもれないものの存在を「僕のよりも不善で不美で不真だ」といい、自分は「車屋よりも信用できる神を知らない」という。結局、彼は神(あるいは神のように高次の存在)を信じていないのだ。だったらば結局、一郎が求めて止まないところの善で美で真なものなんて存在しない、ということになるのではないか。けれども、彼は、お貞さんや、Hさんや、道行く人の何気ない表情の中にそういうものを見出してもいるのである。そこに真善美があると思えるのなら、信心の芽は一郎の中にあるんじゃないか、と思うのだけど、多分そういうことでもないのだろう。

でもそういうものは、あっという間に失われてしまうのだとも考えている。かつて、一郎は自分の妻の中にもそういうものを見出したことがあったのだろう。しかし、それはもう失われてしまったのであって、しかも失わせたのは自分である。だから自分がそこから幸福を得られるはずもない。善で美で真も自分が触れると消えてしまうのである。

自分の妻が自分と結婚したことでその美徳を失ってしまったというのは、直が当時の封建的な妻という規範の中に雁字搦めに落とし込まれてしまったからで、じゃあ、悪いのはその封建的な家族観と慣行であって、それが解消されれば一郎の苦しみはなくなるのではないか、といえば、やはりそういうわけでもなくて、病巣はそこが手当てされただけでは済まないほど広がってしまっている、というか、一郎というのは、何がしかの不幸をきっかけにして、結局そういう全体的な問いに辿り着いてしまうようなタイプなのだよな。

ともかく、一郎は、真善美は、自分が手を触れると途端に衰えてしまうものだと考えている。なのでそれに容易に合一化することはできないし、近づくこともできない。真善美は一郎の頭の中にはあるのに、一郎自身は真善美を体現した人間ではなく、むしろそれを失わせる存在ですらある。それが一郎が自らを「研究的」であって「実行的」でないという所以であって、他方で一郎は、Hさんには真善美が体現されていると考えるから、彼を「実行的」と評する。

実行的になりたい、どうかして香厳になりたい、と一郎は考えるが、実際には彼は自分の妻をすら幸福にしてやる力がないのである。よく、社会正義を追い求める人が自分の家族に対しては冷淡である、というのは風刺的に引き合いに出されることだけれども、これは実際にありがちなことであって、そこにはある種の欺瞞が存在しているのだが、一郎というのは切れ者なので、その欺瞞を(行動を起こすより前に)見抜いてしまうのである。もちろん自分の中にも。それで二進も三進も動けなくなっている、という、頭脳の人、というのか典型的な頭でっかち、というのか、うん。

にしても、改めてHさんの書簡を読み返していたのだが、Hさんは良いなあ。しかし考えてみれば私は宗教といものを知らない、神というものを知らない、絶対というものを知らない、という感じで、無知の知が良い、とかいう話でなく、素直で虚心坦懐なのが良く、そのくせ一郎と同じにインテリゲンチャなのである。良い。