2023.5の読書記録

ふふふ全然ブログ書いていない。何でやろ。ブログを書くということがナチュラルに私の日課から疎外されている。ていうか入る隙間がない。といっても別に忙しい毎日、というわけではない。が、このような忙しい日に限ってなぜか書きたくなる。しばらくアウトプットしないでごちゃごちゃしている頭の中を整理したいという気持ちによるが、単に現実逃避したいのだとも思われる。

漱石、「坑夫」の途中で仕事が忙しくなってきたのでストップしている。その前に読んだ「虞美人草」は酷い作品で、失敗作あるいは駄作といってよく、失敗作あるいは駄作なだけならよいのだが、始末に負えないのは、漱石個人の怨念(すなわちミソジニー)が燻り立つかなり毒性の高い読み物となっている点で、それを摂取した私はその毒気に当てられてすっかり意気消沈してしまったのであった。

虞美人草」が失敗したのは、漱石自身が自分の抱える怨嗟に執着しすぎたためではないかと少し思っている。具体的には、藤尾のキャラ設定に失敗した。藤尾というキャラクターにあまりにも業を負わせすぎて、それが自縛となって、藤尾という悪党が懲されるという陳腐で稚拙な結末を(漱石自身の気持ちとして)回避することができなくなってしまったのではないか、と疑っている。それにしても、もう少し理性的な結末の付け方をできなかったんであろうか。小野に藤尾の家まで小夜子を連れて行かせるとか、甲野家に関係者全員が集まるようにする(そして全員の前で藤尾を辱める)とか、娘が死んで嘆いてる母親に若造二人が説教をかますとか、登場人物に常識があれば(宗近一族、甲野さんなどは常識があるものとして設定されているはずだが)当然回避するはずの状況・場面をこれでもかと繰り出すところなんか、藤尾(とその母)に対する漱石の憎悪と加害欲が炸裂していて、もう目も当てられない。これは問題作であった。ある問題を世に問うたという意味の問題作ではなくて、漱石の抱える病的心理を世間に露出してしまったという意味で問題作であった。当時の人がどう思ったかは知らないけれど。

しかし、それでもこの作品を経て漱石は女への自分の眼差しを問い直すことができたのであろうか。この後の作品全部読んでないので分からないけどできていると思いたい。小説ってそういうことを可能にしてくれる作業なのではないかと思うし。

さて、それ以外では、仕事の合間にエッセイを読んでいる。仕事の合間に読むのはエッセイが一番だと気づいた。例えば「坑夫」なんか読もうとすると疲れる。感情的に疲れる。じゃあ感情的に疲れの出ないもっと軽いもの、となると、つい先が気になって読みすぎる恐れがある。じゃあストーリーがあまりなくて、頭を使わないもの、といったらエッセイである。そんなわけで、今は佐野洋子の「神も仏もありませぬ」を読んでいる。

佐野洋子初めて。北軽井沢に住んでいたころの経験をまとめたエッセイで、世の中に「おじさん文体」(あまりいい意味で使われないけど、ここでは別にネガティブな意味ではないつもり)というものがあるとしたら、この人の文章は「おばさん文体」という感じで(これも悪い意味では使っていません)、男や若い女が書く文章ではない。じゃあどんな特徴があるのかというと、このエッセイではとりあえず、家の半径5㎞くらいの話題が多い。話題の変転が激しい(が一応どの章でも元居たところに帰ってくる)。登場人物が多いが誰も大変生き生きとしている、あるいは生き生きと描写されている。どれも家の半径5㎞くらいの話である割に、とても面白いです。まだ半ばなんだけど、なかなかの手腕であるなあと感心しながら読んでいる。

この前には、森見登美彦の「美女と竹林」を読んだ。これは非常に低劣な代物であった。仕事を多数抱えてアップアップしながら書いた文章であることは分かるが、あまりにも文章の質が低い。こういうの、途中で放棄してしまえばいいんだけど、できないんだよなあ。特に森見登美彦のは(小説では)前半低調でも後半で盛り返したりすることもあるのでちょっと手放し難いのだ。でもこのエッセイは最後までグダグダのスカスカだった。無駄に長くて仕事の合間とはいえ時間を奪われたのが腹立つ。

その前には、伊丹十三の「女たちよ!」を読んだ。これは1年くらい前から寝かせてあったやつ。伊丹十三宮本信子と結婚する前年、映画監督になる十数年前に書かれたものなのだけど、映画監督じゃない伊丹十三って想像ができない。俳優であり何かのデザイナー?でありエッセイストである、と世間には認知されていたらしいのだが、それってどういう認知なのか、想像がつかない。話題は当たり前だけど今の世から振り返れば古くて、西欧の文物をひいきに取り上げる内容が多かったかなあ。食べ物、食べ方、料理法、車、ファッションなど。また、(どのくらい売れたか知らないのだが)こういう文章が尊ばれた当時の世相などを想像したりしている。1968年、敗戦から23年が経過した日の日本人は何を考えていたのだろう。団塊の世代はこのころ20前後ということになる。考えてみれば全共闘の始まる前夜だ。でも、このエッセイの対象読者の中心は、団塊の世代というわけではなかっただろう。ライフスタイルの向上を夢見るサラリーマンの読者が多かったんではないかな、と想像する。その時代の話題なのだ、と思って読んでいる。つまり、私はこのエッセイを現代にリレティブなものとして読まなかった。当時の世相、人々の興味の在り処が映されたものとして読んだ。そういうものとして読めばなかなか面白いけれど、そうでなければだいぶ使い古されたような話題が多いな、と感じた。これがなぜ2005年に新装再刊されたのだろう。それも私にはちょっと分からない。20代の多感な時期だったにかかわらず、2000年代に何があったのかをあまり知らない。もうちょっと時間が経てば分かるのだろうか。文章自体はとても良かった。話の掴みが明瞭で力強くて、最後まで牽引する力がある。

 

以上が最近の読書記録であった。最近の小説も読んだのだがそれはまた今度書こう。仕事を終わらせねば。