吝嗇と金銭感覚

昨日は午前いっぱい雪をかき続けて筋肉痛に。全身筋肉痛になるとどうも肩が重いような、体全体がだるいような気がして、今日は調子が悪いのかしら、となって頭の回転もなんとなく鈍くなる。

昨日はわんわんの散歩ついでに国道まで降りてみたら、これまた真っ白で、アスファルトがてんで見えない。車がゆっくり走るのでなんかよい。楽しい。わんわんも珍しい景色をみて楽しそうである。地面の当たりが優しくて気持ち良い。ということで、久々に雪を楽しんだ。

しかしそういうのはすぐに飽きてしまうもので、今日の散歩はずっと金銭感覚について考えながら歩いていた。私の金銭感覚はおかしい、あるいはズレている。すなわち収支のバランス感覚がおかしい。それなりの収入があったのでそれなりに支出すべきなのだが使えない、という点でバランスが取れていない。つまり必要以上に節約して溜め込みすぎているわけなのだが、頭では分かっていてもいざとなると使えない。たとえ10円、20円単位でも安いものに流れてしまう。

そうなってしまった理由は分かっていて、つまり早い話、貧乏な時代が長かったからで、子供時代をずっと我が家には金がないという感覚を抱き続けて過ごし、長じてからは就職がままならず大学に居残り続けて稼がぬまま30歳を超えてしまったわけで、金がないのが板についている。欲しいものは色々あったはずだが、子供の頃から諦めるのに慣れてしまい、そもそも欲望自体が沸かなくなった。そんなんで今でも欲しいという感覚が行方不明である。あるいは沸いてきても、いや、そこまで欲しいか?買ってどうすんの?ほんとに使うの?などの内省により、購買欲求は容易に圧されてしまう。

ケインズの言葉に「この世で一番むずかしいのは新しい考えを受け入れることではなく、古い考えを忘れることだ。」というのがあって(NHKの「欲望の資本主義」の冒頭で知った)、なんと的を射た言葉であろうか。

昔の貧乏感覚が忘れがたい、というのと、もう1つは、昔の価格が忘れがたい、というのもある。今240円の値札が付いてる食パンに、はて、この食パン前は160円くらいで買えたはずだが、と首をかしげる。そうなると、そうは言ってもしょうがないから買うか、でなく、もうちょっと安価帯のパンに移るか、となってしまう。まあ収入が上がってこない中ではそれが世間並みで普通かもしれないけど。

そんなんで、欲求迷子とインフレの相乗効果で今年も財布のひもが固い。たまに贅沢をしようとしても駄菓子ばかり買ってしまう。迷子にならない欲求は食欲ばかりである。

家計簿でもつけようかな。私のように何もしないでも勝手に金が溜まっていく人間には家計簿というのは不要と思っていたのだが、収支を可視化してバランスをとるという意味では私にも役立つかもしれない。が、生来のものぐさであるから、1か月ももたんやろうな、ともすでに思っている。

とりあえず明日また駄菓子を買いに行くだろう。それ以外になにがしか何の役にも立たない下らないものを買えるようになったらまあそれも成長かな、と思う(がそうはならないだろうというのも分かっている)。あ、「欲しいものが欲しい」ってこういう状態のこと?