「それから」読了

夏目漱石の「それから」を読み終わった。三千代に告白したところから結末が気になり、仕事を押しのけて読んでしまった。非常に呑気な感じで始まった話だったのに、後半の怒涛の展開、そして不安を掻き立てずには置かない唐突なラスト、さすが漱石先生だ、読者の心に余裕を与えないぜと思った。

代助の閑雅な暮らしの描写は結構好きだった。何の事件も起きないまま、これが最後まで続いても良いな、と思うくらいであった。まさかこのぬるま湯に浸かったような暮らしぶりが最後でぶっちぎられることになるとは、誠に儚い。まあ代助の地位というのはそもそもがそういう儚いものであった。

漱石は、2人の男と1人の女という題材を結構繰り返し書いているのだが、「それから」「門」「道草」「こころ」、(自己体験的に)何か心に刻まれたものがあったのだろうか。それとも自由恋愛を描く以上はそこには何らかの障害があってしかるべきなので、必然的にライバルの男というものが浮上してくるのであろうか。

結末の描写も良かった。兄が訪ねてきた後に代助が戸外に飛び出すところ。赤、赤、赤が目に付く、という描写が気になったのだけど、読み返すと、これは第5節のダヌンチオの逸話に呼応させてあるのだろうか。代助は神経が鋭敏なので(まあニートってそうなりがちだよね)、赤のような刺激に強い興奮色には囲まれていたくないし、目にするのも好まないという。庭にある薔薇の赤も目に鋭すぎるという。でも結末、外に飛び出した代助には赤色ばかりが目につく。それは、まさに代助にとって今が世界に向かって立ち向かうべく「興奮を要する時」だからなのかな。それとも、世の中に溢れる刺激に最後でようやっと真に認識し、ありのまま受け入れたということなのかな。このラストは、生まれたての赤ん坊が視界の刺激にびびって泣き叫ぶような趣があって良い。それまでの眠っていたような人生がやっと始まった(しかし労働の苦痛とともに)という感じがある。

実は、読み終わった後、多少心が傷ついた。だって代助は肉親の縁は切られるし、それまでみたいに無職で優雅に暮らせないし、働かなきゃならないのに社会的にも姦通の不名誉を負って生きていかなければならないし、そこまでの犠牲を払ったのに三千代は死にかけている。しかし、色々と分析したり評論ぽいことを考えていると、心が慰められてくる。というわけで、人間は、文学作品によって傷ついた心を癒すために文学評論というものを発明したんじゃないかとかふと思ってみた。

ところで今、大型案件取り組み中で、なのに読書に時間を使ってしまったよし、次からどうしよう。それにちょっと心にこたえる作品というのも危険である。傷ついた心を癒すために評論活動に勤しんでしまって溜まった仕事がさらにおろそかになるからである。だから、次からはもっと軽い読み物で、しかしページをめくる手が止まらないともならず、結末が知りて〜!ともならず、かつ、面白いもの。エッセイとかが良いのかな。

エッセイといえば、去年からリンボウ先生の「イギリスはおいしい」を読みかけている。再読だが、高校以来でまるきり内容を覚えておらず、初読同然である。漱石がロンドンで何食ってたかに思いを馳せつつ読んでみよかな。