身捨つるほどの祖国

風呂上がりにテレビを見ると、「バタフライイフェクト 戦場の女たち」というのをやっていて、しばらく前にアレクシエヴィチの「戦争は女の顔をしていない」を読んだのを思い出してしばらく見ていた。

私はこういうのがよく分からない。じゃあ何が分からないんだって聞かれても、何が分からないかが分からない、と答えるしかない、要するに想像力が全然働かないのだ、こういうのに対して。

ただ一つだけ確かなことは、私なら絶対に戦場に戦いになど行かない、徴兵されそうになったら、どこまでも全力で逃げるということだ。今、ロシア(とウクライナ)から国外に流れてる徴兵忌避者みたいに。それは、死ぬのが怖いからというのも勿論あるけれど、大きなものの一部になりたくない、というのもある。戦争とか国とか愛国心とかと一体になりたくない、なれない、という気分だ。そういう恐れは私の場合はかなり強く、安定を求めつつも公務員を躊躇したし、会社の就職も諦めた。自衛隊やら警察学校のドキュメンタリーを見ると心底ゾッとする。軍隊などに入れるわけもない。組織というものが嫌いだ、嫌いというより恐ろしいといった方がいいかもしれない。早い話、私は過剰適応者であって、組織に入ったら、その組織を激しく嫌悪しつつも心と裏腹に必死に組織に追従し、いずれ自分を見失うことになるというのが分かるからだ。

あんまり戦争の話でなくなった。でも密接に関連してる話だとは思う。どういう形でかは分からんけど。

寺山修司の有名な短歌に、

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

というのがあるけれど、「身捨つるほどの祖国」はない。絶対にない。というのが私の答えだ。それは日本でもロシアでもウクライナでもアメリカでも同じことで、どんな国も「身捨つるほどの祖国」にはなれない。その理由は、と聞かれれば、私は、それは祖国と私の約束ではなかったはずだ、と答えると思う。私は勤労して納税することは暗黙のうちに祖国と約束したかもしれない、けれど、祖国のために戦争に行って死ぬ可能性を甘受することまでを約束はした覚えがなく、それを要求するのは祖国の契約違反だから、と答えると思う。それを強いる法律がもしできたとしたら、それもまた契約違反だと思う。これは法学者なら憲法違反の文脈で語るのかもしれない。そう言えば憲法って国民と国の契約だ、みたいな理論てあっただろうか?ある気がする。形式的にはそう言えるような気がする。

じゃあ、という問いかけを「戦争は女の顔をしていない」のパルチザンの女性がしていたな。私が戦争に行かなかったら誰が行くんだ。私が行かなくても次の人が行くかもしれないけれど、もし次の人が行かなかったら?と彼女は考える。いつか誰かが決心するまで戦争は終わらない。そして彼女は私が行かなくては、と決心する。

一方、私の答えはすごく殺伐としたものになるだろう。ごめん、そういう約束じゃなかったもんで、と私は言うだろう。行かなかったらどうなるのって、私はそこまでは責任を持てない。私の問題ではない、と答えてしまうだろうな。

反論はある。お前と祖国との関係ではそうだとしても、じゃあ故郷とか周りの人間のために戦わないのか、と言われたら、ぐっとなるね。分かったじゃあ協力しましょう、となるかもしれない。ただし国軍に参加する以外の形で。

個人の尊厳て何であろうか。私はそれを死守したいが、戦争は個人の尊厳などとは真っ向から衝突する、むしろ個人の尊厳を奪い合うのが戦争じゃないかと思う。命って個人の尊厳の最たるものではないか。

本当に戦争になんかならなければ良いと思う。こんな問いにマジで向き合ったりなんかしたくないものである。

さて、今日はあらかた雪が溶けてしまって、月は消えて、夜はまた暗くなった。雪がないと寒い。わんわんの足裏が汚れる。また雪が降ればいいのに。