不調のしるし

歯がグラグラしてる夢をたまに見る。母に言うと、私も若い頃よく見たわ、若い頃に見る夢や、と言われる。

しかし全く見ないときもある。このところ多い。何か心理的なものがあるのだろうか、と思って調べたら、ストレスを感じているとき、自信を失っているとき、体に不調がある時、免疫力が下がっているとき・・・などに見る夢だということだった。

とても当たっている。私は今明らかにストレスを感じており、それは歯の抜ける夢を見るまでもなく、トリコチロマニアが止まらないことで明らかである。ここ1ヶ月くらいでかなりの髪の毛を失った。美容院に行くのが辛い。自信はそりゃ失うさ、全然セルフコントロールができていないのだから。夜更かしが止まらない。いつも3時を過ぎてしまうのが悩みだったが、最近は4時を過ぎることすらある。もう少し日が長くなれば、寝る前に空が明るくなるのを見るようになるだろう。カーテンから日が差し込みつつある中で眠りにつくのは大変心の塞ぐことであるが、去年も数限りなくやった。そして間食、夜食がすごいので、そろそろ胃は悪いし、アトピーの兆候も出始めている。全てが悪い方向を指しているが、ドツボにはまっていくばかりである。

それでも今日、久しぶりに単独で街に出、村上春樹の新刊を買い、古本屋を冷やかし、リサイクルショップを冷やかし、必要な細々したものを買うなどして帰ってきたら、だいぶマシな気分になった。少なくとも今日はトリコチロマニアが出ていない。しかし不思議なもので、出かけている最中は何かと辛かった。春樹の新刊を買ったまでは良いが、その後のブックオフではまるで買い物に集中できなかった。本はあまり収穫がなかったが、カズオイシグロの短編集をゲットした。本の棚に集中できないので、漫画のコーナーで違国日記を立ち読みして、夏目アラタの結婚の最新刊を立ち読みした。

違国日記、マキオには大変共感するところがある。しかしマキオは私よりずっとデキるやつである。私はほぼ1対1の友人関係しか築けない、グループ交際のできない人間である(私の対人能力を超えている)が、マキオはできているし、恋人というのか親密な関係を持てる異性の友人がいるし、創作能力がある。うらやま。でも、マキオの母ちゃん(アサのばあちゃん)ちゃんと生きてるんだね。ほんでアサとも仲が良いと。とすると、普通ばあちゃんに引き取られるのでは・・・だし、周りもそうするよう説得するのでは・・・と思うのだが、その辺は特に何もなくアサはマキオに引き取られている。それは尋常じゃない成り行きだから、もうちょっとその辺の説明をしてくれ。じゃないとリアリティを感じられない。

夏目アラタは8巻がピークであった。9巻は割とタラっとした感じに流れる。また次巻で流れが早くなるのでしょうが。

なんか申し訳ないが、マンガはほぼ立ち読みになってしまう。なぜかって、場所を取るからである。どんなマンガもいずれ飽きるし、「これ、大した作品じゃなくね?」という境地に至る日がやってくる。飽きるのは本にしても同じことだが、その違いは、繰り返しになるが、マンガは場所を取るが、本は場所を取らない、というところにある。すでに興味を失ったものが限りある本棚に幅を利かせているというのはなかなか苦になるもので、なんで衝動買いしてしまったんやろう、と必ず後から思う。じゃあまた古本屋に売れば良いのだが、それはそれで惜しい気がしてしまう。私は本を売れない人間である。多少なりと新しい世界に目を開かせてくれた作品を売り飛ばすのは何となく気が咎める。ほとほと愛想が尽きた、作者を軽蔑する、見るのも嫌だ、マイ読書歴から抹消したいというレベルに達しないと売れない。

そんなんでマンガに関してはたいそう申し訳ないが、本は買うので勘弁してくり。

ちなみに本は、どんなに気に食わない内容でも、「2度とこの作家は読まない」ということを肝に銘じるために持ち続けることが多い。別個に「2度と読まない作家リスト」も作っているけれどね。このリストを作っているのは、これは過去の過ち、すなわち1度読んで損したと感じた作家の名前を忘れて再度同じ作者の別作品を読んでしまう、という過ちを何度か繰り返したことによる。つまんない本て忘れちゃうしね・・・

とにかく本は時間を取る。人生において読める本の数はそう多くない。特に私は読むのが早くもないので、下らない作品で人生の貴重な数時間をドブに捨てさせられるのは痛恨なのである。

・・・話が大きく逸れたが、本日、辛い辛いと思いながら買い物を済ませ、家に帰ったら、不思議と頭は静まり、心臓ははやらず、落ち着いた頭で村上春樹の新刊を読めた。決して成功した外出ではなかったと思うのだが、辛くとも、成功の見込みがなくとも、場面を転換するのは大事なのだな・・・と思った。今後も適度に外出しよう、と引きこもりは思った。

羊をめぐる冒険

高校以来再読。耳のモデルの子の存在が、覚えていたよりも鮮やかだった。黒服の回し者だという説もあるらしいが、やっぱり彼女はシャーマンなのだと思いたい。

これも探索型の冒険物語。探索するものは羊。しかし、ジプシーの民話なんかと違って主人公が求めるものを手にすることはない(これは「ダンス」でも一緒)。求めるものはすでに失われている。これは、レイモンド・チャンドラー的な手法であるとどこかに書いてあった。

村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」をもう一度読みたいのだが、手元にない。鼠や五反田君とテリー・レノックスの類似点はよく指摘される(というか口調が同じですよね、この人々はみな)ところ、それを確認したい。正直、チャンドラーは私にはよく分からないのだが、春樹役のチャンドラーを読んでいた頃(今からちょうど10年くらい前である)、私には集中力がなかった。今なら多分集中して読める。ならばまた新たに気づくこともあるであろう。

「羊」は「ダンス」に比べるとすっきりコンパクトによく出来た作品である。であるために完成度の高さだけで満足してしまって、なかなか追求しない。のであまり言うことがない。

ただ、耳のモデルの女の子のことだけど、彼女は12歳の時から耳を出さなくなった、というのだが、その理由は、その美しさが失われるのを遅らせるためだったのであろうか。村上春樹の小説でよく出てくる類型の女の子、かつて持っていた眩いばかりの美しさを、歳経るにつれて失い、しまいには死んだり殺されたりする・・・という類型の女の子があるのだが(「多崎つくる」のシロなど)、彼女はその亜種なのであろうか。

しかし、彼女はぼ「僕」との旅で、その魅力を急激に失うことになる。「ダンス」では、五反田君は、彼女の耳に全く気を止めていない。その美しい耳は、この時もうすでに喪失されていた可能性がある。「羊」において「僕」に耳を見せすぎたためか?それとも、やはり羊をめぐる冒険自体に、彼女の美しさを著しく損なうこととなる要素が含まれていたのであろうか。シャーマンが力を失うときとはどんな場合であるのか?

など、私の興味は耳の女の子に集中した。でも、羊男も良い。羊男は十二滝町の出身で、戦争忌避者である。徴兵を逃れて森に迷い込んで、そのまま人外のものとなってしまった奴である。寒い北海道の森を生き延びるために、または人目をくらますために、彼は逃亡時に羊の毛でできた衣装を被ったのであろうか。

そういえば、どこかで12が「羊」のキーポイントだって指摘してたな。耳の女の子が耳を閉じた年齢が12。十二滝町。干支は12。あと、羊をキリスト教に関連づけて考えるなら、十二使徒も想起される。まあそこに深い意味が付されているわけでもないのかもしれないけど。

 

ダンス・ダンス・ダンス

村上春樹のファンであるけれども、この作品はあまり好きなほうではなかったので、高校の頃に1回読んだきりだ。

20年の時を経て読み返して思うのは、人間の記憶力というもののいい加減さと、あと、人間の好みって時間が経ってもそんなに変わらないんだな、ということである。

どこが気に入らないのかを先に述べると、まず、ストーリー展開が強引すぎる。とくに主人公とユミヨシさんの関係であろうか。ユミヨシさんとの出会い方も不自然であるし、都合よく主人公になびきすぎる。村上春樹の女性登場人物があまりに主人公に都合よく動く(動かされる)というのはよく指摘される話だけれども、このユミヨシさんは最たる例ではないかと思う。ユキとの出会いや、主人公にすぐになつくのもやはり不自然で、虫がいい話だ。

あと主人公が2度にもわたって女買ってもらえるのも大変都合がよい話である。本人が希望してもおらず、積極的でもないのに。やはりストーリー展開が強引だ。

あと、主人公がユキの無責任な両親に対してかなり毅然としてモラリスティックであるのもちょっと鼻につく。もちろん村上春樹の主人公が超然としたタイプであるのは今更のことではないのだけど、この作品では妙にそれが気になった。

物語全体がそういう強引な展開で駆動されていくので、全体として入り込みづらい。しかし、そういういささか強引なストーリー展開に何か秘密が隠されているのか?この話のメタファーが、あまり私には分からない。

が、言っても始まらないのでストーリーをまとめておこう。

1 仕事で函館に行く。その後帰らずに札幌のドルフィン・ホテルに行く。

2 ドルフィン・ホテルで働くユミヨシさんに出会い、仲良くなる。

3 ホテルの中で羊男に再会する。

4 たまたま五反田君の映画を見て、キキを発見する。

5 東京に帰ることにする。ユミヨシさんからユキを託され、飛行機の欠航に見舞われながらも2人で東京まで帰る。

6 五反田君に連絡を取り、五反田君と会う。五反田君の家を訪ね、女を呼ぶ。メイと出会う。

7 雪から電話があり、ドライブの約束をする。

8 ドライブに行く前に警察がやってきて、メイが殺されたことを知る。警察で取り調べを受け、留置される。

9 牧村拓の力で警察から解放され、ユキに会う。ユキと一緒に牧村拓に会いに行く。

10 五反田君に電話し、会う約束をする。五反田君に会い、メイが殺されたことを告げる。

11 ユキとハワイに行くことを決める。牧村拓、五反田君、ユミヨシさんに出立を告げる。

12 ユキとハワイの海で過ごす。翌日、アメに会いに行く。アメがユキと過ごす間、ディック・ノースと海岸を散歩する。

13 ホテルの部屋に牧村拓が手配したジューンがやってくる。

14 平和に過ごしていたが、ユキとドライブ中に、雑踏にキキらしき人影を見つける。歩いて追いかけるがキキは消え、6体の白骨のある暗い部屋にたどり着く。

15 ユキをアメに預け、1人東京に戻る。

16 五反田君から電話があり、会う約束をする。部屋に招き、飲んで過ごす。五反田君と車を交換する。ジューンの問合せを依頼する。

17 五反田君からジューンが売春組織を3か月前に去っていることを知る。五反田君と会合を重ねる。

18 ユキが日本に帰る。マセラティでユキとドライブに出かける。ユキがマセラティに拒否反応を示す。

19 ディック・ノースが日本で死ぬ。スバルでユキとアメのいる箱根に向かう。ディック・ノースのスーツケースを預かり、家族に送り届ける。

20 五反田君に会い、キキの耳の話をする。キキが殺された可能性に五反田君が触れる。

21 刑事の「文学」に出くわす。捜査の経過を聞く。

22 箱根でユキとアメに会う。

23 例の映画をユキと見る。ユキは、五反田君がキキを殺したと言う。

24 五反田君と会い、マセラティでドライブし、シェイキーズに入る。キキを殺したかと尋ねる。五反田君が店から姿を消す。

25 五反田君とマセラティが海から引き上げられる。

26 ユキと会う。ユキは、家庭教師につくことにしたと告げる。

27 キキの夢を見る。

28 ドルフィン・ホテルを訪れ、ユミヨシさんに会う。ユミヨシさんと暗闇に迷い込む。羊男はいない。ユミヨシさんを見失う。目覚めるとユミヨシさんがいる。

 

3での羊男との再会には、いろいろとヒントが隠されている。羊男によれば、僕は「結び目をほどいてしまった」「失うたびにしるしを置いてきてしまった」それゆえに「もうこの場所としかつながっていない」「つながりを失ったら、あんたはこっちの世界でしか生きていけなくなる」

また、誰かが僕につながろうとしている。羊男の役目は配電盤のようにつなげることである。僕がつながれるよう羊男は手助けをするが、僕も努力しなくてはならない。すなわち、踊り続けなくてはならない、しかも、誰もが感心するくらいうまく踊らなくてはならない。これがタイトルの由来になる。このアレゴリーが分かりづらいのだが、これがシーク&ファインド型の冒険物語であるとするならば、何かを見つける旅の途中で降ってきた難題をうまく解決する、誰もが感心するくらいうまく解決する、というのが「踊る」ということになるのだろう。

僕が探求するのは、羊男のいう「つながり」であるけれども、耳の女すなわちキキでもある。そしてその旅の過程で(探求対象とは一見全く無関係に)与えられるミッションがまず、迷子になった王女(=ユキ)を両親の元に送り届ける、というものなのだが、これがなかなかうまく行かない、というのは両親が王女の受取りを拒むからである。しかし物語の終盤に、ディック・ノース(の死)と映画の中の五反田君の援助を得て、何とか新しい道に王女を送り出すことに成功する(ユキはディックの死によって腑抜けとなった母を支える側に回る。また、ディックの死を受けてユキが後悔を口にし、僕がそれを窘めるシーンがあるが、これによってユキはディック同様見下している父親(牧村拓)への接し方を振り返ることになる。ユキは機能不全家族を何とか乗り越え、先へ進むことになる。)。小田急の駅にユキを送り届けて、僕のミッションは何とか終了する。

もう1つのミッションとして、五反田君を加えてもいいのかもしれない。本当の自分と演じている自分の乖離に苦しむ五反田君は、動物に姿を変えられてしまった王子(王女)であるとも言える。しかし、僕は、五反田君の乖離に光を当てることには成功するが、五反田君の本当の姿を引き出そうとすることを躊躇い、引き返す。そして五反田君は虚飾(マセラティ)ごと海に飛び込んで死んでしまう。こちらのミッションは失敗だった、ということになるのか(ところで五反田君は、キキの殺人はここの世界で起こったものではない、だから自分にはコントロールができない、遺伝子に組み込まれているのだ、と語るけれども、それは「海辺のカフカ」でカフカ少年の周囲に起こった殺人を想起させる。あれも別の世界で起こった殺人だった。)。

こうして、探求の対象(キキ)は消えてしまったので、主人公の旅の目的は果たされない。ここまではいいのだが、よく分からないのがここから先の展開で、僕はユミヨシさんを求めるようになるのだ。なぜそうなるのか?ユキを失い、五反田君を失った後では、僕に残された最後のつながりがユミヨシさんだったからだろうか。最後のシーンも謎が多い。僕はユミヨシさんに起こされて再度羊男のいる(はず)の暗闇に足を踏み入れるのだが、この時の違和感は(僕も気づいたとおり)ユミヨシさんが制服を着ているということである。僕が暗闇を抜け出てさらに目を覚めましたときも、ユミヨシさんは制服を着ている。ユミヨシさんは制服を着て一体何をしていたのか?

(この先は完全な妄想なのだが、ユミヨシさんは暗闇が再度現れた時に、羊男の部屋を訪れて羊男を殺してしまったのではないか、とちょっと思っている。ユミヨシさんが僕を起こしたのはその後だったのではないか。それもまた、五反田君と同様、ここではない世界で起こった殺人であり、ユミヨシさんのコントロールを超えて行われたものかもしれない。ユミヨシさんは神経質な人間である。ホテルという自分の愛する空間にいるかホテルや羊男という異物が混じり込んでいることを許容しなかったのではないか。僕を連れて再び羊男の部屋を訪れたのは、殺人者は現場に帰る、というやつではないか。ともかく羊男が死んだなら、白骨が6体揃う。)

どっちにしろ、この物語は謎を多く残したまま終わる。

メイは誰に殺されたのか、それは最後まで明らかにならない。それからジューンから渡された、かつ、ダウンタウンの部屋に残された電話番号がどこにつながっていたのか、それも分からない。電話はこの物語の重要なファクターだが、つながらない電話番号があるということは、そこに何か失われたリンクがあるということだ。メイ、ジューンにつながる失われたリンク。その正体が最後まで明らかにならない。

あまり好きではない、と言いつつ考察してみたら、意外に楽しかった。つまらんラストだ、と思っていたが、これは結構恐ろしいラストかもしれなかった(私の妄想の中では)。違和感というのはやはり大事だな。しばらく、村上春樹を読んでいくつもりである。「羊をめぐる冒険」を読んだので、次は「1973年のピンボール」にさかのぼる予定。あと、夏目漱石も並行して読んでいる。

 

追記:ダンス・ダンス・ダンスを考えるにあたって、ネットに転がっている論文をいくつか読んだのだけど、面白い指摘が1つあって、それは五反田君の車がマセラティであり、マセラティのエンブレムがネプチューンの三又の鉾であるということ。そして五反田君が僕の白昼夢の中で水泳教師の役柄で登場することなども含め、五反田君は水または海につながる存在である。これに対し、僕が乗る車はスバルで、恋人には月に帰れと言われる。僕は宇宙につながる存在である。

というのがその論考の指摘だったのだが、私がプラスで思いついたのが、ユミヨシさんがスイミングスクールに通っていることである。五反田君が海に引き摺り込まれて死んだ後、つながりを失った僕は宇宙に吹き飛ばされそうだと感じる。その時僕はユミヨシさんを求めるのだが、そのユミヨシさんも五反田君と同じく水につながる存在である。しかし、五反田君と違うのは、水に引き摺り込まれることを回避すべく、水泳を習っているという点である。すなわち、ユミヨシさんは、僕にとって五反田君の代わりとなり、かつ、水に引き摺り込まれることのない存在であって、それゆえに僕を地上につなぎとめることのできる存在であるわけだ。

 

 

なんとなく、クリスタル

表題の小説を読む。新潮文庫で200ページ強、しかも左ページは注釈(挿絵のみのページもある)なので、さっさと読めた。

「百年の誤読」を先に読んでとりかかったので(岡野氏はとくにお嫌いのようで)、特に期待していなかったが、意外に面白かった。

青学の大学生由利の一人称により話が進むのだが(といって筋という筋はないのだが)、やたら横文字を使いたがる。クリスタル、がその最たるものなのだが、他にも、グルーミーだインクレディブルだノーブルだディレッタントだソフィスティケートだアーベインだアトモスフィアだとうるさい。だが、ここで面白いのは、これらの言葉の意味が実際の英語における意味・用法とたびたびズレている点で、もちろん作者はこの点について自覚的である。これらの横文字語は全てアルファベットの綴りが左側の註に置かれているが、例えば、註の64とか65では、その誤用がやんわりと指摘されている。私が気づいた範囲ではインクレディブルとアーベインもおかしい。で、皮肉なのはこれらの横文字を振り回す由利が英文科所属だったりする点で、彼女の学問がファッションに過ぎないことがよく分かるようになっているのだ。が、由利がどこまで自覚的であるかは分からないが、彼女にとってはそれでよいのである。彼女の言葉の選択はあくまで「気分」であって「なんとなく」であって、彼女にとっては、ディレッタントであることはあくまで美点であって、言葉の正しい用法に目くじらを立てるなんてのは、ソフィスティケートされた態度ではないのだ。知らんけど。

ただ、この点であまり主人公をバカにできないのは、こういうテケトーな語彙の選び方というのは、私も結構してしまうからである。現実の生活に根ざしてその意味・用法を理解していない外来の言葉を、その雰囲気と語感だけで使ってしまう。やりがち。

 

なお、由利は「私たちのまわりには、まだまだおかしな西洋コンプレックスが残っている」(p76)とか言っていて、周りにあふれる西洋文化に批判的な目を持っているのかと思いきや、由利の言うところの「おかしな西洋コンプレックス」というのは「西洋や西洋人のすべてがすぐれている」という思い込みのことであるにすぎない。全然深く考えての話ではないのであった。

 

それからあふれるブランド名。ファッションのみならず、ディスコや料理や音楽まで。大学も。登場人物ごとにその所属大学が示される。大学名は伏せられているが、その所在地が示されて大体どの大学か分かるようになっている(主人公は青学、その彼氏は成城大学である。絶妙の設定だ。)。こういう大学名も、登場人物たちの人となりを表すブランドの一種だ。

しかしこういうブランドに溺れる主人公を笑い飛ばすこともできないのは、主人公が珍しく核心をついているからで「ブランドが、ひとつのアイデンティティーを示すことは、どこの世界でも同じなのだから。」(p78)、あと、註249なんかもそうで、およそ人間が世間に向かって身につけるものは全てブランドまたはブランド類似物に過ぎないということが喝破されている。ここも良い。

 

江藤淳は、この作品を読んで激賞したそうだが、その評価の一部が作者によるあとがきに引用されている。江藤氏によれば、この作品は、東京において「都市空間」というものがもはや失われていることを描き切ったものだ、ということだが、ここでいう「都市空間」てなんなんだろう。なにか記号に還元されない、有機的な一体としての都市、ということなのですか。今一つイメージがわかない。(この点を調べていたら、恵泉女学園大学紀要の面白そうな論文が出てきたので、後で読もうと思う)

 

追記

上記の論文、なんクリの部分だけ読んだ。なんクリとジョルジュ・ペレックの「物の時代」との関連性と、「物の時代」(60年代)からなんクリに至る道のりで生じた変化(すなわち、ブランド主義の確立)について語られていて目からウロコだった。もちろんペレックを読んだことはない。

江藤淳のいう「都市空間の崩壊」とは、この論文で引用された北田暁大の「都市の中に広告があるのではない。むしろ都市そのものが広告であ り,広告でないものが存在しない」に通じるかもしれない。

 

 

久々のダウン

本来なら2日で終わるべき仕事を1週間かけてやっと終わらせた(しかも納期にちょっと遅れた)。

このところどうもおかしい。集中力が完全に失われている。トリコチロマニアもひどい。髪の量が不均衡に減って、そろそろ見て分かるくらいになっているんじゃないかと恐れている。でも止められない。瞑想をやってみたり(1日だけだけど効果なかったな。やはり続けないとダメか)、緊張・弛緩運動をやってみたりするけれど、これもすぐには効果がない。継続する根気もない。しんどい。

花粉症は治まっている。周りを見渡すと、まだ絶賛スギ花粉が飛んでいるそうなので、私はどうもスギ花粉には反応していないのではないかと思う。でもこの時期スギ花粉より先に終わる花粉とか聞かないし。単に人よりは閾値が高いというだけだろうか。

そもそもこんな時間に日記を書いていることがおかしい、と言われればおかしい。それが心身の健康を損ねていると言われればそんな気もする。でも、かつて11時に寝て6時に起きるという健康的な睡眠サイクルを送っていた時代、トリコチロマニアもすごかったんだよなあ。規則正しく生活は決め手にならない。まあ1つの要素かもしれないけれど。しかし、もうとにかく寝よう。家は静まり返っている。

花見、リスキリング

毎日書く、という決意のなんと無意味なことであるか。

今日はお花見に行った。ちょうど、散り始めてもいない満開の時期だった。

平日であるというのに駐車場がどれも満車で、しばしタラタラと難民をしたのだが、広い駐車場に巡り合えてなんとかなった。

水辺に立っていると、落ち着く。濁ったような水でも、ないよりはあった方が良い。

ランチを食べながら、ベンチに座って、歩きながら、また車の中で色々と話をして、帰ったら仕事をしたくなった。というのは一緒に出かけた友がしっかり仕事をしているからであった。

私も打ち込める、かつ、金になる仕事がしたい。

リスキリングという文字が頭をよぎるが、今更新しいことを始めるより、今すでにある技能を高めた方が良いことも分かる。がその気にならない。新しいことを始めてもいいかもしれない。まだかろうじて若いし。

今晩限りで忘れていなければまた色々調べる。

3月のまとめ

1ヶ月近く書かなかった。仕事はとうに暇になっていたのに、毎日書くという縛りを解いたら瞬く間にこの調子である。よろしくない。というわけで、また毎日書くことにする。

 

ブログを書かない間に色々あった。3月中旬に5日ばかり上京した。2人の友人に会った。父と佐伯祐三展に行き、祖母の財産を確認し、父の不要な口座を解約した。

戻ってきて、わんわんをドッグランに連れて行った。こちらで友人に会い、ランチをしながら本と映画の話をした。昨日は母と地元のカフェに行った。薄味であったがソーダの種類が豊富で良かった。次はハンバーガーを食べたい。さらに新たなドッグランを求め、地元の鄙びたグラウンドにわんわんを連れて行った。

3月は仕事があまり来なかった。上京の前に1、2本、後に2本という感じで、いずれも軽い。一応書き入れ時が終わる前なので、こんなんでいいんかとも思うが、いいのだ。仕事があるよりはない方が楽である。しかし、帰ってきてからトリコチロマニアがひどい。加えて仕事に全く集中できない。原因はおぼろげながら分かっていて、睡眠不足で精神状態が悪化しているせいだと思う。しかし、どうしてこうも宵っ張りになってしまうのかという謎は解けない。布団に入るのが3時過ぎ、悪くすると4時過ぎというのが常態化しつつあるので、これは深刻である。精神状態の乱れがさらなる乱れを呼んでいるのだと思う。どこかで悪循環を断ち切らないといけない。今日、久々に座禅を組んだのだけど、イマイチ即効性はない(そういう効果を狙うのが不順なのは分かっているが)。

仕事のこととなると、将来があまり思い描けない。この業界で定年までやっていけるという気はあまりしない。外的な事情もある(AIの進歩により大きく人員削減が行われる可能性の高い業界である)が、それよりも個人的に、この仕事に賭ける気持ちが全く湧いてこない。この仕事に関して自己投資をするつもりがない。実際、私の技量の進歩というのはほぼ全く止まっているのだと思われる。水も肥料もやらなければ当然である。

その癖、来た仕事は必ず拾いに行くのだが、しかし来なくたって別に構わないよ(むしろ楽で良い)という気持ちもある。

インボイスも多少影を落としている。私はインボイスの登録をしないと決めているが、取引先はインボイスを勧めてくる。今でも仕事の供給が不安定なのに、これだと10月を過ぎてどうなるか甚だ覚束ない。

別に休業しても良いと思っている。貯金が特技(というか使わないので単に溜まっていく)の私であるから、(今後のインフレの程度にもよるが)10年くらいは遊んで暮らせる蓄えはあるので特に恐れることはない。もちろん10年も休みはしない。その間に働く能力が失われてしまうだろうから。10年というのはただの精神安定剤だ。

例年通りなら、4月、5月、6月と、さらなる閑散期が待っている。多分、読書と映画鑑賞で過ごすだろう。今年3月までに読んだ本の冊数は13冊で、このペースでいけば、年間50冊を超える。一般的な読書家にとっては年間50冊なんて鼻で笑う数字だろうが、私にとっては大きな第1歩である。それだけ集中力が回復してきたということなので。今年は、夏目漱石の小説全部と、村上春樹の小説全部を読むつもりでいる。